直訳すれば『情報を読み書きする能力』である。
文部省は21世紀の情報社会に必要なこととしてパソコンを学習することを提言しているそうだ。子供を持っていないので(もっとも、結婚すらしてないけど(^^;)、実際にどれだけ小・中学校にパソコンが導入されているのか知らない。でも、本当に必要なのはパソコンの操作や原理を学ぶことだろうか?
パソコンの操作を学んだところで、彼等が成人する頃には、それは時代遅れのものになっているだろう。そんな時代遅れになるとわかっている、しかも本質的でない技術を学ぶことに何の意味があるのか。子供達は頭の堅い大人達と違って、もしそれが必要ならパソコンを自然なものとして使うようになるだろう。まるでTVゲームのように。
情報社会、ネットワーク社会で本当に必要なリタラシーとは何だろうか?
私が考えるインフォメーション・リタラシーとは、字句通りの『情報を読み(判断し)書き(創り出す)する能力』だ。
Internet やパソコン通信を見ていればわかると思うが、全ての情報が客観的でもなければ、正しいわけでもない。どちらかと言えば非常に S/N比の悪いのがネットワークだ。そして、それが情報社会だ。
これからは(あるいは既に)誰でもが普通にネットワークにアクセスするようになるだろう。そのときにはパソコンを操作することは特別なことではない。その中でちょっとぐらい道具が人よりも使えることなんて何の意味もない。
本当に大切なのは、S/N比の悪い情報の中から必要な情報を判断する能力、矛盾する情報から本質を見抜く能力、そして情報そのものを自分で創り出す能力なのではないだろうか。
別にこれは情報社会にだけ必要なものではない。現在だって必要なものである。だが、情報社会ではより必要になるものである。これは技術的な進歩にまったく依存しない。だからこそ、より本質的である。別に難しいことを言っているわけではない。つきつめれば『(より)自分で考える力』である。
今の学校教育は『自分で考える力』を育てる教育になっているのだろうか? そして、この文章を見ているあなたは『自分で考える力』を身につけているだろうか?